月刊 学友会通信(仮)

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H23.05

福島県放射線災害派遣に対する報告-その1-

H23.06

福島県放射線災害派遣に対する報告-その2-

H23.07

超音波で見つけた胃癌

H23.08

比叡山ヒルクライムに参加して

H23.09

消化管検査

H23.10

エーザイ株式会社さんについて

H23.11

昭和59年にうじが学ばせてもらった賢い仲間たち

H23.12

学友会 同窓会に参加して!

H24.01

最近はじめた事

H24.04

新しい趣味、始めました

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

H23.05 <福島県放射線災害派遣に対する参加報告-その1->

〜放射線被ばく測定(サーベイ)・放射性物質除染の協力に参加して〜

三木市立三木市民病院 後藤 吉弘(昭和62卒)

 

<はじめに>

左から清水隊長 田中隊員 播間兵庫県会長 中村隊員 後藤副隊長

今回、日本放射線技師会からの協力要請にて兵庫県放射線技師会として4人の精鋭隊員を募り福島県の現地に向かった。 その背景には兵庫県では原子力発電所は県内にて稼動していないが、我々はこれまで過去3年間において、近隣の発電所にて事故等が起こった場合を想定し、原子力災害等緊急被ばく医療に関する初期対応研修会を行ってきた実績があり、 放射線被ばく測定(サーベイ)・放射性物質の除染に関して基礎知識や対応に関しても十分な知識があったからである。

 

 

 

<いざ福島県へ>

初日、我々は伊丹空港から福島空港へ飛んだ、飛行機の中からは阪神大震災でも同じであったが屋根が壊れてとりあえず雨が入らぬよう応急処置をしたブルーシートの屋根が多々見えた。そして飛行場に

着いたが、管制塔が修理中であり、空港から災害対策本部までの道路も路面が波をうち、所々陥没隆起している状況、家やビルが倒壊しているありさまを見るとこの度の東北地方太平洋沖地震の大きさを改めて知った。

 

<郡山市災害対策本部では>

福島県郡山市の被災された方の避難所も兼ねた対策本部がある「ビッグパレットふくしま

では、真っ先に感じたのが、部屋に入れない方々が通路にもあふれ、多くの方々が避難されている事に驚かされたが、なにより異常な雰囲気と極限の生活から発せられる苦しさを五感で感じ取れた。 ここでは愛想や笑みは一切してはならいと、 また、懸命に頑張る住民の視線が怖いとも感じ、まともに直視出来ない自分の目は涙で溢れそうになり、言葉も発せず足早に通り過ぎるだけだった。 

問題となるこの地の放射線空間線量はシンチレーションサーベイメータでは時間あたり室外で数μSvこの値は病院での医療被ばくを知っている放射線技師なら、健康に問題ないレベルと感じるかも知れないが、放射線の知識の無い住民にとっては量ではなく 『放射性物質がある』 という事だけで恐怖だと感じている方ばかりと感じた。

 

<活動派遣場所決定>

福島県災害対策本部からの要請にて、我々の部隊のサーベイ活動場所が37kmの最前線でもある田村市総合体育館に決まり身の引き締まる思いで現地に赴いた。この場所での空間線量は、ほぼ同じ数μSv値を示し、報道陣も多く詰め掛け会場付近は騒然としていた。

また、現地では日本の主な電気会社で運営される電気事業連合会の原発で働いているスタッフがサーベイの協力をするためスタンバイしていた。我々技師の業務は、放射線量が除染の対象以下であるかを確認することと同時に被ばくは問題ないとする認証の発行と異常値が見られた場合のみ、放射性物質の除染に対応をすることとなった。対象は福島原発の周辺の住民がほとんどだが避難区域内で活動された救急隊員や自衛隊員も多く、20km圏内から来られた方のスクリーニングは、数値も高い場合があるので、気を付ける必要が十分にあった。

最終的に3日間の滞在中の活動場所はこの場所で災害活動としては放射線被ばく測定(サーベイ)と数名の放射性物質の除染を行った。  

測定結果について詳しい内容や状況をそのままホームページ上では書けないが、数枚の写真を掲載致します。 

私の中では小さな子供や乳児もサーベイを行ったが、被ばくを心配する親の顔は絶えず子供の心配をしていたのが私の中では特に印象深く記憶に残っている。  

今回の事は講演や発表にて技師会や学友会にて写真と共に紹介し情報共有することで我々診療放射線技師がこの様な事態において何が出来るかを考えたいと思います。

電事連の協力により 約30名以上スタッフ50台以上のGMが現地に集まり対応した

 

【まとめ】

 現地では福島第一原子力発電所から半径30km圏内の住民とその近隣の住民に対する、放射線被ばく測定(サーベイ)と放射性物質の除染、被ばく相談、測定結果認証を行った。 数日で約数百名の測定を行い3名の方の靴や手から基準値以上の放射性物質が付着していたため除染を行った。 5日間で環境放射線量や隊員個人のポケット線量計の被ばく線量から判断しても、風向きや様々な条件にもよるが原発37km滞在した場所では人体に影響が無いレベルの被ばくと考えられる。 しかし 避難指示が出ている5kmから来られた住民には拭き取り除染が必要な放射性物質が付着していたのは事実であり、これからも原発付近に近づく方には、放射線被ばく測定(サーベイ)が必要と考えられる。

 日本放射線技師会(兵庫県放射線技師会)・三木市立三木市民病院 診療放射線技師として現地に災害派遣に参加し、放射性物質により被災された住民の方々の為に、我々放射線技師としてもっと何か出来ないか、どうすれば役に立てるのか、帰ってきてからも、今でも考える毎日です。 行方不明の家族を探すため、残してきた家族でもあるペットのため、長年住み慣れた家のため、早く元の被災地域に戻りたいという住民の切ない気持ちが痛いように感じられた。 また、現地では 『がんばろう』 という文字を多く見たが、まだまだ続く、この放射線の異常値の状況に終止符が打たれるまで、また、風評被害に負けず復活するまで、放射線技師として協力は惜しまないと強く心に誓い、この報告が被ばく被災された方々に対して、そして、同じ資格を持つ集団である私たちが何らかの支援に繋がる事を心から願い報告と致します。

 

H23.06 <福島県放射線災害派遣に対する参加報告-その2->

東日本大震災の災害医療支援に参加して

大阪府立成人病センター 米田 晃敏(平成1年卒)

 

 平成23年3月30日から4月2日まで、岩手県陸前高田市の高田第一中学校に車載CTの撮影技術支援という立場で行ってきました。まず、災害医療援助に参加することになった経緯ですが、関西広域連合(関西の府県連合)はこの度の大震災による被害が甚大であった3県に対し、カウンターパートナーとして分担支援する枠組みを決定しました。岩手県は大阪府と和歌山県が担当することとなり、大阪府立病院機構においても急性期医療センターを中心に、医師、看護師、薬剤師等を救護所等の医療派遣として5月末まで週単位で派遣しておりました。また、保健所に所属する放射線技師も原発事故の影響から放射線測定業務を行うために現地派遣されていました。そして私ですが、当院からも医療派遣が決まるなか放射線技師は対象外となっていたため、震災のあった翌日に技師長と「阪神大震災では当時、放射線医学研究所が所有していた車載CTが現地で役立ったから、大阪がん予防検診センターにある車載MDCTならもっと役立つのに」なんて、他人事の会話をしていたように覚えています。それから二週間の経った3月25日の夕方、岩手県災害対策本部から大阪府の災害対策本部宛てに車載CTの貸与要請があり、大阪府から大阪がん予防検診センターには、翌26日に陸前高田市へ向けて出発せよとのことでした。

ここで問題になったのは、大阪がん予防検診センターでは肺がん検診が主な業務なのでそれ以外のCT撮影は全く経験が無いこと。また車載CTから画像を取り出す際に専用の端末が必要であり、その端末は車に積んで移動出来ないとのこと。なによりに現地の状況が把握できていないということもあり、出発は翌週に延期することとなりました。

それから車載CTとともに現地に向かう人選が始まりました。まず、運転手さん2名、放射線技師1名が大阪がん予防検診センターで選抜され、当院からも放射線科医師と放射線技師を派遣するということになりました。それから諸々の準備作業や支援物資の積み込み等を経て、30日の朝にCT車が予防検診センターの人員を乗せて出発しました。

中西部長と私は、先乗り調整のため飛行機で東京、秋田を経由し30日の夕方に盛岡の岩手県庁災害対策本部に入りました。

 盛岡市内の様子ですが,震災当日に震度6弱の地震だったそうですが、震災後20日経って地震の影響をほとんど感じない状況でした。しかし岩手県庁だけは自衛隊の装甲車、トラック、ジープ等が並び、まさしく物々しい雰囲気が漂っていました。

 岩手県庁で現地医療対策本部の責任者の方と面会し、その後県庁で行なわれた医療対策全体会議にも参加させていただきました。その際、事前の取り決めと現地の認識に大きな隔たりがあることに驚いてしまいました。まず、事前の連絡では、「車載CTは高田第一中学校に配置する。当方は車載CTの貸与のみで運用は県庁及び岩手医大が行う。CT稼動に必要な自家発電装置の燃料は県庁で手配する。」等、取り決めがなされていました。

しかし現地では「高田第一中学校に配置されるのですか?」、「CT装置の撮影は何方が?」、「燃料は現地で話して下さい。」「高田第一中学校は盛岡日赤病院がメインで活動されているので、運用は高田第一中学校で盛岡日赤病院の責任者とご相談下さい」とのことでした。4日間の派遣命令で来た私達は、高田第一中学校での車載CT引き渡しを無事に終えて帰路につけるか、とても不安に感じた盛岡の夜となりました。

翌31日の朝、車載CTと高田第一中学校で合流する予定で出発を待つ私たちに、県庁の方が「盛岡日赤病院の現地責任者の方がこちらに向かっておりますので暫くお待ち下さい」とのこと、間もなく来られた現地医療責任者が、「大きなCT車では、高田第一中学校に乗り入れ出来ないので、先に車を見せてほしい」とのこと。高田第一中学校へ向かうCT車に急いで電話するも連絡が取れず、「現地への最終ルートはひとつ」とのことで、CT車を必死に追いかけていただきました。途中、何度かの電話で辛うじて乗員の方に電話が繋がり、現地手前の「道の駅」で合流しました。乗員の方にその件を伝えると、「現地対策本部から大丈夫」とのこと。とりあえず盛岡日赤病院の車に運転手さんが同乗し下見に行ってもらいました。下見された運転手さんからは「高田第一中学校へ上る最後のスロープは180度カーブで傾斜もあるので厳しい」とのことでした。

 他に配置する場所を検討しましたが、医療チームが24時間常駐する場所は近辺に高田第一中学校しかないとのことで、トラブル覚悟で突入しました。途中、わき道を利用し車をUターンさせ最後に車の底を擦りながらも何とか高田第一中学校の校庭に到着しました。

次にCT車の駐車場探しです。やはり高田第一中学校では「なにか来るらしい」程度の認識は覚悟しておりましたが、想定外であったのは高田第一中学校の校庭には岩手県下で初めての仮設住宅が並び、当日は卒業式が行われている最中ということでした。陸前高田市の象徴的な高田第一中学校には、多くのメディアが押し寄せた、グランドにはTV局の中継車が並んでいました。当然CT車を駐車するスペースなど無く、停車すらクレームがつく状況でした。

 現地の担当者と交渉し、NHKの中継車に無理やり移動をお願いし、エンストしている車を皆で押して何とか校庭の隅に居場所を確保しました。(図1)

図1 図1高田第一中学校とCT車

 その後、4月1日にかけてCT稼動に必要な自家発電用軽油の確保、現地の医療関係者との運用に関する取り決め、県立病院の技師さんにCT撮影業務の委託と操作説明等、想定外のトラブルがありがらも無事終了しました。自家発電用軽油は、最近になってやっと確保できる様になったそうで、もし1週間前に出発していたら「燃料が無いので使用出来ず」という事態になっていたかも知れません。また現地滞在中は何度も余震に襲われました。特に就寝中の震度4以上は思わず飛び起きてしまう程でありました。

肝心のCT撮影ですが、3月31日から4月1日にかけてCT撮影は2人でした。

これは、周辺の避難所に情報が十分伝わっていなかったことや、震災から2週間が経過し、避難所には慢性疾患や風邪、ノロウイルス等の患者が多く、CT撮影が必要な患者さんはすでに周辺の病院に転送されたこと。地震で家具の下敷きや身動きのとれなかった人々は、巨大津波により溺死されたため、けが人が想像より少なかったという事実があります。

私は空き時間を利用して、高田第一中学校内の避難所や校庭、自衛隊の宿営地などを見て回りました。救護室では、情報伝達の遅れが支援物資の偏りになっていること。

被災者の若手は殆んどボランティアで避難所の運営に協力していること。メディアが勝手に撮影やインタビューを行ない、現地でトラブルが増えていること。自衛隊の協力で週一回の入浴が可能になったこと。自衛隊の宿営地は整理が行き届き、とてもすっきりしていたこと。現地で医療支援している日本赤十字を含め、自衛隊、DMAT、医師会、国立病院機構、ユニセフ等、様々な組織がそれぞれの持ち場で協力していること。関西から多く給水車が給水支援に入っていることなど、現地でしか知り得ないがたくさんありました。

またCT車の運用に協力いただけることなった県立大船渡病院の技師さんが、瓦礫の町となった陸前高田市を徒歩で案内いただきました。(図2)震災前の陸前高田市を知らない私でしたが、あまりに悲惨な状況に言葉を失くしていました。

最終日、盛岡に向かう帰路に陸前高田病院で車を止めていただきました。(図3)

図2 陸前高田市街地

図3 県立陸前高田病院

震災当日、4階建ての陸前高田病院は4階病室の上部まで津波が押し寄せ、入院患者さんは医師や看護師の誘導のもと屋上に逃げ延びたそうです。寝たきりの患者さんの中には、運良くエアーマットが浮いたおかげで4階の天井近くまで持ち上げられながらも助かった方もおられる一方、1階で書類等を持ち出そうとしていた事務職員や2名の放射線技師さん含め、多くの職員が津波により亡くなられたそうです。

 

 今回の東日本大震災は巨大津波を伴い、地理的な問題や被災範囲の広さと相まって、救援する側にも様々な難題を突きつけた震災であると思います。この状況で救援に行く者は十二分の準備と、様々な想定外を臨機応変に対応する能力が重要だと感じました。

最後に、東北地方を襲った大震災により被害を受けられた方々にお見舞い申し上げるとともに、今も現地で様々な救援活動を行っている方々に敬意を表します。

 

H23.07 <超音波で見つけた胃癌>

超音波で見つけた胃癌

辰巳 久義(平成15年卒)

 

この症例は、単なるスクリーニングとして検査を行い、患者さんには何の症状もありませんでした。

胃癌を疑い胃カメラにまわしたところ、たんなる潰瘍で、念のため生検を行ったとのことでした。

ところが、結果は・・・・・!!

 

-日常の腹部エコーのスクリーニング検査において発見された進行胃がん -

男性 86歳

典型的な胃がんの症例

部位:胃角部〜前庭部

    胃壁肥厚(+)

    蠕動による影響(−)

    Pseudokidney sign (+)

 

GTFにて精査

    胃潰瘍

    生検の結果、進行胃がんと診断された。

 

最終的にOP後の病理結果は、Borrmann2型 StageVAでした。

「肺病変のために胸部撮影をしたら、肋骨が骨折していた。」ということは、よくある話です。ですが、この骨折を見逃すということもよくある話です。

写真に写ってるものは、すべて見るということは、基本中の基本ですが・・・。

(胃カメラで、なぜ見つからなかったのかということはさておき。)

この症例も、当たり前に検査していたら見落とす可能性があります。よく見つけてくれたと思います。

編集 岡本

 

H23.08 <比叡山ヒルクライムに参加して>

比叡山ヒルクライムに参加して

第ニ京都回生病院 池田 雄士(平成19年卒)

 

 平成20年に卒業後、就職し早3年が経ち4年目を迎えました。仕事では毎日が勉強の日々ですが、就職し出会った同期の仲間と新しく始めた趣味について話したいと思います。日頃釣りやゴルフ等やっており多趣味だと言われてますが、最近では健康志向、アウトドア志向が高まってブームにもなっている『自転車』に2年程前からハマってしまい、現在私の職場では男性のみならず女性までもがロードバイク、クロスバイクといった自転車にまたがって通勤をしておりサイクリストの輪が広まっています。休みの日など、市街地から峠を越え美山や琵琶湖へと走りに行きます。自分の力で自転車をこいで遠い目的地へと進むその爽快感、時には苦しさもなかなか味わえない達成感へと変わります。最初はしんどくて何度か足をついた峠道もある時足をつかずに登れるようになってくるのです。いつかはレースにも出てみたいと思っていました。

 すると今年、学友会京都支部の総会の翌日ではあったのですが、6月26日に『2011 比叡山ヒルクライム大会』が開催されるというので職場の男女5人がエントリーし、参加してきました。ヒルクライムとは登坂競技のことで自転車に乗ってスタートからゴールまでのタイムを競います。普段、奥比叡ドライブウェイは自転車の走行ができないのですが、この日は通行止めとなり初の自転車の走行が可能となる貴重な大会です。距離は10.9km(内8.4km競技タイム反映)、平均斜度4.2%、最大標高差487mの登り坂を利用します。関西だけでなく北は新潟、南は鹿児島の方まで1630名のエントリーがありました。今回私たちのメンバー全員、自転車の大会に出るのは初めてです。

 大会当日は受付が6時45分までと早いため夜中の3時に起き大雨の中ウォーミングアップがてら向日市の自宅から奥比叡の受付会場へとロードバイクで向かいます。滋賀県に入る頃には雨はあがり、同じ会場をロードバイクに乗って目指す人や、車の上に自転車を乗せ向かう人などが次々に現れ、気持が高ぶってきます。スタート位置から少し離れた小学校のグラウンドにて男性メンバーと合流し受付を済ませ計測チップとゼッケンをもらい準備にとりかかります。男性メンバーは20歳代部門で走ります。女性陣は10歳以上男女問わないオープン部門での出場のため別行動です。続々と参加者が集まってくるのですが、みんな速そうに見えて仕方がありません。

 部門ごとにスタート位置に集まり開会式が始まります。この時スタートの約30分前、ますます緊張が高まってきます。最初は実業団の方からスタートし、10歳代、20歳代と順にスタートしていきます。実業団のスタートのピストルの音が鳴り目の前の坂を数十名が一斉に登っていきます。この光景に飲み込まれた私の心拍は緊張で上がってしまい、100前後であったのが140程まで上がってしまいました。就職面接時の様な緊張でピークに達しています。ついにロードBの部門のスタートとなり5分間隔で約20名ずつのスタートとなり緊張をピークに迎えたまま3人で順番を待ちます。興奮で逆にニヤけてしまいます。スタートラインに並び10秒前のカウントダウン。ハンドルを握りしめ、

 「3、2、1、スタート!」

 落ち着いてビンディングペダルにシューズをはめ込みペダルをこぎだします。が、ゴール後に後悔することになるのですがスタートからいきなり先頭のハイペースに流されてしまい自分のペースを見失ってしまいます。これで一気に心拍が190に跳ね上がり1km進む前に足が重くなってしまいました。なんとか落ち着かせたいところですが先はひたすら坂。すでに先頭を走っていた人は見えなくなりました。汗はだくだく、ただひたすら目の前を走る人を抜いてやる思い出必死にくらいつきます。もう景色を見る余裕は一つもありません。5kmを過ぎたたりから短い下り坂も混ざってきて次第にスピードも上がります。『極楽への道』という看板が見え、ここからゴールまで平地と下りの連続になり、最後の力を振り絞り全力でこいでいきます。ゴール手前、2人を追い抜き無事ゴール!同期のメンバーの一人は先にゴール、あとの一人は私の後ろでゴールとなりました。短かったような長かったようなレースで、達成感もありましたが後悔も残ります。

 ゴールから2km先の折り返し地点にて表彰とリザルト(順位表)の発表です。普段は車の駐車スペースがこの日は自転車の駐輪場となり宝の山に見えました。ゴールした選手たちが続々と集まり結果を待ちます。そして貼り出された結果は、20歳代ロードB、出走した124名中61位、タイムは31分10秒。もう少し上にいたかった。メンバーの一人は見事15位、もう一人は65位でした。やはりレースで勝負している以上悔しい思いばかりがこみ上げてきます。来年も出場して頑張ろう、その為にも明日から頑張ろうと自分に誓いました。

その後女性メンバーが無事ゴールすることができみんなで表彰台を借り記念撮影をしました。冷えた美味しいビールが飲みたいところですが、集団で下山し受付会場で参加賞をもらいみんなで帰りました。

 仕事だけの人生ではではなかなか味わえない緊張感と興奮を味わえることができ、朝早くからみんな非常に充実した1日になったようでよかったです。いい趣味に出会えたなと改めて感じました。来年は20位以内を目標に仕事へのモチベーションも上げつつ頑張ろうと思います。

 

H23.09 <消化管検査

 

消化管検査

中井記念病院(奈良県) 奥田 晃英(平成15年卒)

 

 最近、消化管にハマっている。私の言う消化管とは胃透視検査や注腸検査のことで、診療放射線技師が行う施設も多い。

 

 私は、7年ほど消化管を避けて技師人生を歩んできた。なんとなく難しそうなイメージがあったからだ。しかし、職場を移ったことにより消化管から逃げられなくなり、ついに消化管デビューすることになった。

 やり初めの頃は、ただただルーチン撮影だけに意識が集中して、病変を見つけるどころの話しでは無かった。また、体位変換が困難な患者さんのときは綺麗に撮影できなくても仕方ないと心の中で言いわけばかりしていた。透視検査の担当月は、胃透視や注腸の予約が入らない事を願っていたが、そういう邪心があると予約は沢山はいってくる。

 

 別に消化管検査が嫌いなわけではないのだが、今さら30歳を越えた自分に・・・新しく1から覚えるのも・・・という状態だった。

 

 「好きこそ物の上手なれ」とは、よく言ったもので好きになれないと上達に時間が掛ってしまう。私の場合もそうであった。

 

 しかし、そんなこんなで経験を重ねていくうちに、たまに上手く撮影できるときがある。何か工夫をした訳では無いのだが上手く撮れてしまう時が。それが快感だった。また、上手く撮りたい、上手く撮れば読影も容易になってくる。そんな気持ちが少しずつ湧き始め、あれこれ勉強するようになった。その甲斐あって少しはマシな写真も撮れるようになったし、読影に関しても知識は増した。今では、奈良県消化管撮影技術研究会の幹事にもなり精力的に活動させてもらっている。

 消化管の醍醐味は、全神経を集中して患者と向き合うところにある。他のモダリティのようにポジショニングをしてボタンを「ピッ!」という訳にはいかない。腸管の構造を三次元的に脳内で捉え、バリウムの流れをイメージし、腫瘍の形態をリアルタイムで把握して・・・とにかく難しい。難しいほどハマりこむ要素は多い。

 

 最近は、他府県の消化管研究会にも参加して少しでも知識を増やそうとしている。消化管の勉強会だけは休日を潰しても苦にはならない。

 

 今までは、「あなたの専門モダリティは?」と聞かれても迷って答えられなかったが、これからは「消化管です」と胸を張って言える。

 

 「好きこそ物の上手なれ」とは、よく言ったもので、何かを上手くなるには情熱が必要なんだなと、つくづく感じる今日この頃である。

 

 

 

H23.10 <エーザイ株式会社さんについて>

エーザイ株式会社さんについて

医療法人三光会クリニック三木(和歌山県) 和田 邦(昭和55年卒)

 

 

 いつもお世話になっています。本社は東京都文京区小石川です。ロゴのhhcはナイチンゲールの直筆サインから取り出したもので、エーザイマークの赤は動脈を、青は静脈を意味します。(wikiより)ここまでくると気になる黒は何?。収益の黒字かな。白は何?。包帯かな。フランス三色旗の白は自由ですね。社名は旧社名「日本衛材」(衛生材料の略。具体的には絆創膏や包帯の事)からです。「エー」は「ええ」、「良い」の意味に取れてエーですね。関東方面では「いいね」ですね。HPによると栄養剤とも衛生用品ともとれるので都合がよいとのことです。

 ナイチンゲールの直筆サインは下記です。ちなみにナイチンゲールの専門は病院の衛生管理です。

さすがエーザイさんイメージ戦略完璧です。

 

(フローレンス ナイチンゲール)

 

私は「Wada kunihiro」」とサインします。日本では姓を先に書くのが普通(常識)ですからそれを主張すべきとの意見を聞いてからはこれです。

 和田の「和」は和風の「和」、和歌山の「和」、邦宏の「邦」は日本国の「くに」ということでnippon的な姓名に感謝しています。世界に名の知れた人物になれたらいいのにと思うばかりです。

 小石川といえば小石川療養所が有名です。享保7年(1722)12月4日、江戸小石川の薬草園に設置され、無料で庶民の病気治療にあたりました。この画期的な福祉施設は小石川伝通院の医師・小川笙船の目安箱への投書から実現しました。

 八代将軍・徳川吉宗(紀州藩出身)は享保の改革を進める中で庶民の声を吸い上げる必要があると考え、目安箱を設置していました。

吉宗は腹心である町奉行・大岡忠相(越前)に命じて小川笙船と面談・調査を実施。そしてこの日薬草園に建てられた養生所がオープンしました。その様子は山本周五郎の小説『赤ひげ診療譚』でも知られています。

 現在、小石川養生所のあった場所(小石川植物園)には、その井戸だけが残っています。そして隣には旧・東京医学校の建物が建っています。エーザイさんと関係あるか不明です。

 腰痛でメチコ○―○にお世話になってます。よく効きます。いい薬です。アリ○○○予備軍ですし、今後ともよろしくお願いします。

 東京方面にお出かけの際は本社を横目で見て、小石川植物園に寄って下さいね。

 通信のために調べ物するとつながっていって楽しいです。

 

 

 

H23.11 <昭和59年にうじが学ばせてもらった賢い仲間たち>

『昭和59年にうじが学ばせてもらった賢い仲間たち』

滋賀支部 猪飼 猛(昭和59年卒)

 私たちは卒業して、四半世紀がたっています。

 あの頃の昼食は、みんなで王将や十八番へ食べに行き、食後はパチンコ・麻雀・ゲームセンターで遊んだものです。また、休日は休日で、それぞれの下宿・実家へ行き、わいわい・ガヤガヤと共につるんだものです。当然、勉強もみんなでしましたよ (^o^)/

 試験中は、夜中に電話で共に励まし合い。(眠らないように起こしあったり)徹夜勉強も当たり前のように過ごしたものです。

 その仲間が今でも、毎日「おはよー」と挨拶し、「仕事おわったよ!」「これから会議です」と、状況報告し、休日は休日で「今日は運動会」「今日は当直です・・・忙しいわ!」と、みんなで会話しているんです。不思議な話でしょ・・・・

 

 

上図(当直明けでの挨拶。晴れの日です)

 

 

それは、鹿児島の仲間が立ち上げてくれた「ブログ」を通じて、会話しているんです。

 

 そもそも、京都と大阪の二人の出会いから全ては始まりました。みんなの居場所を探し合い、25年間の空白を飛び越えて会えることになったのです。

 それは、2008年の事でした。それぞれの役職につき、職場の環境も違うみんなでしたが、共に過ごした時間は同じで、思う気持ちも同じです。「もう一度、みんなに会いたい・・・あの時の空気・雰囲気に会いたい」の思いで第1回の同窓会が開催されました。

 

でも、忘れないものですよね。。。。それぞれのあだ名やエピソード、性格や生活環境など、忘れてたと思っても、顔を見れば25年前に戻ることができるんです。それから本格的にブログでの会話が始まりました。

 

 不思議なもので、25年ぶりに出会ったはずのみんなですが、毎日のブログの会話で、いかにも昨日まで出会って話していたかのように、自然と世間に話が弾みました。

 良いことなのか?悪いことなのか?解りませんが、うれしい思いでいっぱいになりました。

 

 私たちの仲間には大阪・京都・兵庫・三重・鹿児島・佐賀・奈良・和歌山・沖縄・滋賀、と日本全国に居ます。遠いようですが毎日パソコンや携帯電話(スマートフォン)を使って、つい隣にいるかのように会話しています。会話に参加しない仲間もいますが、見てくれているようです。切っても切れない仲間、何故か共に年を重ねる程熱いものを感じることができました。話さなくても、いつも仲間たちのブログを中心に繋がったものを持ち続けてこれからもずっと話あえれば良いと思っています。

 まだまだ、卒業していないような気がします。毎日ブログという教室にみんなが集まって、喋って、笑って、泣いて・・・・本当に私は、この仲間たちと出会って良かったと思っています。ありがとうと言いたい気持ちと、これからもずっとよろしくね!という気持ちで毎朝挨拶をしています。  おはよー ってね

 

 

 

H23.12 <近畿医療技術専門学校放射線科学友会 同窓会に参加して!>

近畿医療技術専門学校放射線科学友会 同窓会に参加して!  

明舞中央病院兵庫県) 半蔀 英敏(昭和62年卒)

 

 この度は、平成23年10月29日に神戸にて開催された同窓会にご参加させていただき、ありがとうございました。

 卒業して早24年が過ぎました。先輩卒業生の皆様は、驚くほど多方面にご活躍され、お話をするたびに、甚だ感銘を受けるばかりでした。

 私が、在学していたころは行岡病院の裏で、窓を開けてもすぐそこには隣の建物があり、空調は扇風機1つだけ・・・と、暑さ寒さとの戦いでもあったと記憶しています。先輩卒業生の皆様も、この教室と他科の空調の効いた新しい教室の学生と同じ学費は不公平だ・・・と思われた方も多かったのではないでしょうか?今では、新しい建物となり、ほんとうらやましい限りです(笑)。その他、思い出といえば、当時教務主任の竹田先生のお話・・・よく怒られましたね。学生と言えば、「学生気分??」言われるように社会に対し甘えているところがあり、それをお父さんのように正してくれたんだなぁ・・と、今では、ありがたく思っています。この度の同窓会では、教務の堂中先生もご参加いただき、当時の思い出が、昨日のようによみがえり、懐かしく楽しむ事ができました。

 診療放射線技師の業務も、卒業から24年も経つと内容も変わりました。CTも1スライスに数十秒かかっていたのが、今では、全身を数秒で撮影が可能となり、更に画像処理により3D構築も。一般撮影もCRの普及でも劇的に変化しました。たった24年ですが、淘汰させる技術もあれば、新たに求められる技術も生まれたと実感しています。そんな中、診療放射線技師という免許が、時代とともに社会から何を求められ、何を提供できるかを、いろいろなお立場の方々と進むべき方向性を考えていかなければならない時代になったと思います。私が学んだ時代の「人体に放射線を照射できる独占業務」のライセンスでは、職種そのものが時代背景から淘汰されるのでは・・・?と危惧しています。 専門職という責任と使命感を持ち、チーム医療の輪の中で技術を含めた医療人として認められ参加できることを強く望みます。そのためには、学校教育・育成教育をはじめ、生涯教育まで一貫した教育システムの構築が必要ではないでしょうか。

 これからも、同じ卒業生の皆様と一緒に、この学友会が情報共有の場となり、診療放射線技師の発展につながればと思います。

 私自身、これからも「井の中の蛙」にならないよう、アンテナを広げて頑張っていきたいと思います。

この度は、この様な企画をしていただいた世話人の皆様に大変感謝致します。

ありがとうございました。

 

 

 

H24.01 <最近はじめた事

最近はじめた事  

大阪支部 小林 克仁(平成6年卒)

 

 40歳という数字が目前に見え始めた最近、体重の増加と共にお腹の脂肪が目立ってきました。

だからという訳ではないのですが・・・最近ジョギングをはじめました。

 

 子供の小学校で行われている持久走大会の練習に付き合い走り出したのがきっかけではじめた訳です

が、持久走大会も終わったある日のこと、

 

   私     「走りに行くけど、どうする?」

   子供たち 「もぉ、ええわ」

 

そんなこんなで、夜1人寂しく走ることが現在の日課になっています。

 走り始めたころは小学3年生の次女の体力にあわせ約2kmの距離を走っていましたが、私自身中学時代は陸上部に所属し、約10年前にはハーフマラソンなどにも参加した経験があり「2kmぐらい楽勝やろ」と高をくくっていましたが、やはり10年のブランクは大きく、小学6年生の長女にはまったくついていくことが出来ず、置いていかれることもしばしば・・・、しかも次の日には激しい筋肉痛が・・・。

 走り出した当初は、寄る年波には勝てず、体力の限界を理由に引退(?)も考えました。

がしかし、「継続は力なり」とはよく言ったもので、2週間程経ったころには、ほとんど息も上がらなくなり、タイム的にもそこそこは走れるようになってきたので、今は距離を倍に伸ばして走っています。

今後も時間と体力の許す限り走り続け、出来れば一生の趣味になればと考えています。

そしていつかはフルマラソンへの挑戦も考えています(いつになることやら・・・)。

仕事も趣味も目標を持ち続けることが、能力やモチベーションの向上に繋がると思います。

 

 また先日行われた学術講演終了後の懇親会の席で、来年度に各支部対抗で駅伝大会を開催しようという話題で非常に盛り上がり、現在その実現に向けて鋭意検討中ということもあり、私自身も当面はそれを目指してトレーニングに励みたいと思います。

 

 このホームページを見ていただいているご学友の方で、我もと思う方がいらっしゃれば、是非ご一報をお待ちしております!

 

 

 

H24.04 <新しい趣味、始めました

新しい趣味、始めました  

(和歌山)医療法人三光会クリニック三木 

和田 邦宏(昭和55年卒)

 

健康生涯スポーツ始めました。こどもから大人まで皆さんで出来ます。すでにご存知の方もあるかと思います。「スポーツ吹矢」です。知人の紹介で社団法人日本スポーツ吹矢協会http://www.fukiya.net/の無料体験教室に出かけたら、まんまと始まりました。初日から真ん中に当たるラッキーな展開を、自分は「上手、天才かも」と陶酔してしまうのが悲しい。おそらく協会の策略でしょう。

始めるのは簡単です。近所の協会支部に連絡するだけです。教室への案内、試合などです。道具に少し出費必要ですが、何とかなる程度です。こんなこと書きながら遊びの予算不足で公認の道具はまだ購入していません。自作に走ってセット完成したところです。工作用の材料は結構あります。水道用のパイプ13mm(内径12.5mm)にペイントしてマウスピース付けて筒は完成、矢抜きを作って、そこにポリプロピレンシートを巻きつけて矢を作ります。詳細はnet検索で見てください。たくさんあります。吹き方などは協会のHPにありますが実際に指導していただくことをお勧めします。近所に支部が無いときは独学です

「この遊びは健康になる」下記は協会HPより抜粋です

気功やヨガは「腹式呼吸」、テニスやゴルフなどの一般スポーツは「胸式呼吸」です。どちらの呼吸法も健康に大切。スポーツ吹矢ではゆっくりとした一連の動作のなかで、腹式と胸式の両方を用います。これが「スポーツ吹矢式呼吸法」。静かなエクササイズと呼ばれるゆえんです。スポーツ吹矢では大きく息を吸い込みます。その指令が大脳から延髄の呼吸中枢に送られるため延髄が活性化。不眠症や体調の改善につながります。胸筋と胸式呼吸力が強化され、喘息などに効果的です。矢を吹くとき思いきり息を吐き出すため、瞬間的に腹筋を強く使います。強い胸式・腹式呼吸力によって肺の深部まで酸素を送りこむため、カラダの隅々までリフレッシュできます。矢を吹くには、強く息を吐き出し腹筋を使って一瞬息を止めます。このときお腹全体に腹圧がかかって、内臓に停滞している古い血液を送り出し新しい血液が送り込まれるため、内臓器官が活性化されます。いいことたっぷりです。

目標は6段の試験に挑戦です。数年かかりそうですが楽しいですね。よなよなリビングで矢を吹く音「フッ」と玄関ホールを挟んで隣の和室で的に当たる音「パン」が響きます。8m取れたらいいのですが7mです。窓を開けて外からだと10m取れますが、ご近所の目が気になるなあ。いけません。警察に通報されそうです。

自作の

 筒

 矢

 矢ケース、

 筒スタンド、

 的、

 的シール

 

 

これは公認用具です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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